大和市つきみ野〜相模原市中和田〜町田駅
境川左岸の古道(滝山街道)

概要:滝山街道は後北条氏によって整備された、鎌倉玉縄城と八王子滝山城を結ぶ街道。概ね現在の国道16号、436号に沿った道。町田市南部の境川右岸は鎌倉街道上の道が通るが、左岸(大和市〜相模原市)にも滝山街道沿いの古道、興味深い社や遺跡が点々と続く、鎌倉街道のような人気コースでは無いが、なかなか興味深いお勧めの散歩道ではある。

距離:約12Km  標高差:約100m 時間:3〜4時間

 

第六天神社〜大和バイパス(国道16号)

庚申塔は、道しるべも兼ねる。右八王子、町田 左くほさハ の銘が読みとれる。

最寄りは、田園都市線つきみ野駅が近い。旧道沿いにある小さな第六天神社(1)からスタートしてみる。賑やかな幹線通り裏の旧道をてくてく行くと、分かれ道に庚申塔が立っている。(2)この道も古道で、庚申塔の表記に従って右に行くと、町田市矢原で鎌倉街道・上の道につながる。今回は途中左折して段丘上の道を進むこととする。やがて、市立北大和小学校の脇を通るがこの段丘崖(3)付近は城山と呼ばれ、後北条氏家臣の山中修理亮なる人物が天正年間に居住した砦跡と伝えられており、それを裏付ける出土品もあるようだ。この道はやがて、田園都市線、16号バイパスの上を通り、公所地域に入る。

浅間神社 〜 長嶋神社

大和市公所(くぞ)は、地名から朝廷直轄地か何らかの公的機関が置かれた場所と推定されている。浅間神社(4)(16号バイパス新設時に現在地に移転、創建当初〜1500年頃は、鶴間総鎮守・鶴間神社と呼ばれた)周辺は、近代化を免れた趣のある家屋(4)が点在している。地域は境川の河岸段丘上にあり、ここから定法寺(5)にかけては、奈良時代、駅が置かれたと推定されている町田市町谷・古鎌倉道と海老名(相模の国府)に続く古道の交差点を一望できる位置にある。定法寺からは、河岸段丘を降りて緑の多い段丘崖沿いの道を小さな祠や、地域の墓地(6)を見学しながら進む。

やがて道は、相模原市に入る。相模原市では鎌倉道という真新しい道標(7)がやたらに立ててあるが、うーん間違いではないが、まぎらわしいな〜。伝鎌倉道はそこら中にあるので、整理した方が良いくらいで、石碑を建てるようなモンじゃないよな気がする。何個目かの道標を通過して、上鶴間高校裏に至ると、(8)道正坂がある。坂の名称は道正寺(廃寺)による、この坂の途中には奈良時代前期の横穴墓があり、鎌倉時代の板碑も発見されているらしい。坂を上りきって右に行くとすぐに長嶋神社(9)がある。

長嶋神社は創建年代不明だが、道正坂の遺跡などから少なくとも鎌倉時代ぐらいまでは遡れそうだ、と神社の由来書に書いてある。現在本殿は西に向いているが、かつては東・境川に向いていたとのこと。ここの狛犬はかわいい、犬らしい姿なので一見の価値あり、境内には色々な年代の石造り物が残されているのでそちらも興味深い。

惣吉稲荷神社 〜 金山神社

長嶋神社入口の交差点を入って北上する。段丘上の道は辻のお地蔵様(10)などまだ旧道の面影を残している。やがて惣吉稲荷神社(11)に到着。ここにはかつて無量山西光寺という寺があり、徳川家の家臣、大岡吉十郎義成の墓(1599年没)があった。寺は、末社・稲荷神社を残して廃寺となったが、主人の墓を守り続けた忠僕惣吉を讃え「惣吉稲荷神社」と命名されたとされている。この神社の境内には、大岡夫妻の墓がある。(12)

←大岡夫妻の墓

この神社には、南北朝時代の板碑(双碑)がある、板碑二枚は、延文四年(1359年)の双碑で生前供養の板碑とのこと、境内の保管庫内にある。網越しになるが、美しく保存状態の良い板碑を見ることができる。双碑隣にもう一枚板碑が保管されている(13)が由来不明。

神社は思いの外小さなものだが、由来や板碑など興味深い。板碑のように年号が書かれたものは、非常に貴重な年代資料となる。神社の由緒沿革によると、「惣吉は義成没後は自ら進んで西光寺の寺男となり生涯をその墓守に捧げた」とあるが、義成没年1599年、無量山西光寺は1655年開山なので、ちょっとそれは無理だな。

←ひっそり残る馬頭観音

惣吉稲荷神社から段丘をおりて、金山神社(14)めざして進む。神社は境川にほど近い位置、少々元気のない商店街付近にある。対岸町田市側地名は金森で、金山神社は金属、鉱山の神であり、それに関する施設がこの周辺にかつてあったことを示唆している。地質的には鉱山はあり得ないので、金属精錬か加工をする集団がこの周辺に居たのかも知れない。道路脇には新築マンションが目立つようになり、町田駅周辺の繁華街がやがて見えてくる。

鹿島神社 〜 幸延寺

対岸に高層マンションが林立するJR町田駅が見えてくると、道は鹿島神社(16)の参道となる。鹿島神宮の隣は青柳寺(17)、それぞれの由緒沿革を読むと何だか別々の物のように感じるが、要するにここに渋谷義重と言う人物が、僧日題を請じてこの地に寺(青柳寺)を建立(文禄元年 1592年)、下って享和元年(1801年)谷口村下森の地より縁のあった(渋谷義重が勧請したと伝わる)鹿島神社を現鎮座地に遷宮し合祀した、ということらしい。昔は寺と神社の区別は曖昧で仲良く祭られていた名残。

道は、高層マンションやホテルに挟まれ、小田急線下のトンネルを抜けて、境川に沿って続くが、近年市街化が急速に進んだ場所なのでまるで古道らしい雰囲気は幸延寺(18)に至るまで皆無。幸延寺寺伝では、開基は大谷伊織(天正16年(1588年)没)と伝えられ、木箱に入った多量の古銭が昭和11年に発見され、寺宝として保管されている。これは、開基であった大谷伊織が北条氏直の家臣であり、小田原城落城の際にこれを持って逃走してきたものだと伝えられている。中国唐の開元通宝(621年初鋳)を最古として、明の宣徳通宝(1433年初鋳)までの62種、11,866枚が確認された。惣吉稲荷からこの幸延寺まで、いずれも1600年前後の動乱の頃の伝承が伝わっているのは偶然だろうか?散歩は、この幸延寺を終着として、町田駅からの帰路に着くこととする。

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